* category: 未分類
「音の言語化」は必要である論
2012.01.15
Sun
02:34
音を言葉で表現するというのは、大変難しい事です。
なぜなら音は音以外の何ものでもなく、音に形やにおい、色はありません。
それらを感じたとしても、人それぞれで感じ方は変わってきます。
ですから音を言葉に変換して、人にそのまま伝えるというのは、かなり難儀といえましょう。
すなわち頭の中でイメージしている音を他者に伝えようとしたとき、
一番間違いない方法は、
実際にそのイメージしている通りの音を相手に聴かせる、
というのが唯一の方法なのです。
が、そのためには、そのイメージする音を実際に具現化する作業が必要となるわけです。
そして、その作業の一環にレコーディングがあるわけです。
しかしながらレコーディングを何人かの人間同士で共同作業する以上、
当然、その作業の過程においても、音のイメージの伝授という事が必要となってきます。
しかし、レコーディングはイメージする音の具現化を試みている最中なのですから、
当然音になる前の段階での伝授が必要になります。
その際、必要となってくるのは、やはり言葉です。
……………、
何の話っかていうと、レコーディングをしてると、
自分が出したい音をメンバーやエンジニア(僕)に説明しようとして、
けどその困難さに辟易して、途中で説明を挫折してしまう(音を出すことすら挫折してしまう)、
という人がとても多い、という事なんですよね。
レコーディングした事ある人は、みんな経験あるでしょ?
音を言葉で説明しようとすると、なんかバカみたいになってくること、よくありますよね。
なんか無意味な、すごい無理な事してるんじゃないか、みたいな。
しかしみなさん、あえて断言しますが、
音を言語化するのは、可能です。
また、それは、必要な事です。
前に書いた通り、レコーディングはイメージする音を具現化する過程なので、
音を音で伝える事がまだ出来てない段階です。
しかし、集団で創ってる以上、他者の助けは必要です。
そのためには、まだ音になっていない音を、音以外で伝える、という努力が必要なんです。
音を感触や形状に例えて言語化する、というのは結構普遍的にあります。
やわらかいーかたい(感触)
するどいーまるい(形状)
くらいーあかるい(視覚)
あたたかいーつめたい(温度)
きついーゆるい(感触?かな)
こもるーぬける(容積?状態とか?)
その他もろもろ…
じゃあなんで、わざわざ比喩化するか、「何Hz(ヘルツ)が何dB(デシベル)で…」
という説明がもし出来るなら、それがベストなんじゃないか、というと、僕はそう思いません。
例えば僕がマスタリングに立ち会ったとき等、自分以外のエンジニアと作業を共にする際も、
何Hz何dBという言い方はしません。
例えば今より4kHzが3dB欲しい、と思っても、
それを言った所で意図は相手に伝わらないからです。
そんな言い方するんだったら、「ちょっと席変わってくれません?」と言ったほうが早いです、僕の場合。
「4kHzを3dBブースト」を、「もう少し固く」と伝えるか、「もう少し明るく」と伝えるか、
「もう少し抜けがほしい」と伝えるか、その言葉のチョイスで相手に伝わる意図が全然違うわけですね。
やはり、この音の言語化というのは、プロは上手です。
特にディレクターやプロデューサーなど、場を踏んだ人ほど上手に自分の言葉で伝えてきます。
反面、バンドマンは苦手な人が多い。
言葉なんかで説明する前に、鳴らしたほうがはええ、ってなりますからね。
けど繰り返しますが、レコーディングは音の具現化の最中なので、そうはいかないわけですね。
だから、レコーディングって嫌いだ、ってなるバンドマンも多い。
音の言語化に優劣はありません。
こういう言い方が出来るから優れている、なんて事はないのです。国語の授業じゃないんだから。
確かに知性が露出する面もありますがw、そんな事で人に優劣をつけて馬鹿にするヤツは、
音楽で人を感動させる事の出来るヤツじゃないです。
「エッジが効いて尚かつビビットでエキソントリックな」と言おうが
「ガシャーン!とダーン!とギャギャギャーンと!」と言おうが、
伝わるものがありゃいいんですよ。
諦めず、是非、伝えてください。
なぜなら音は音以外の何ものでもなく、音に形やにおい、色はありません。
それらを感じたとしても、人それぞれで感じ方は変わってきます。
ですから音を言葉に変換して、人にそのまま伝えるというのは、かなり難儀といえましょう。
すなわち頭の中でイメージしている音を他者に伝えようとしたとき、
一番間違いない方法は、
実際にそのイメージしている通りの音を相手に聴かせる、
というのが唯一の方法なのです。
が、そのためには、そのイメージする音を実際に具現化する作業が必要となるわけです。
そして、その作業の一環にレコーディングがあるわけです。
しかしながらレコーディングを何人かの人間同士で共同作業する以上、
当然、その作業の過程においても、音のイメージの伝授という事が必要となってきます。
しかし、レコーディングはイメージする音の具現化を試みている最中なのですから、
当然音になる前の段階での伝授が必要になります。
その際、必要となってくるのは、やはり言葉です。
……………、
何の話っかていうと、レコーディングをしてると、
自分が出したい音をメンバーやエンジニア(僕)に説明しようとして、
けどその困難さに辟易して、途中で説明を挫折してしまう(音を出すことすら挫折してしまう)、
という人がとても多い、という事なんですよね。
レコーディングした事ある人は、みんな経験あるでしょ?
音を言葉で説明しようとすると、なんかバカみたいになってくること、よくありますよね。
なんか無意味な、すごい無理な事してるんじゃないか、みたいな。
しかしみなさん、あえて断言しますが、
音を言語化するのは、可能です。
また、それは、必要な事です。
前に書いた通り、レコーディングはイメージする音を具現化する過程なので、
音を音で伝える事がまだ出来てない段階です。
しかし、集団で創ってる以上、他者の助けは必要です。
そのためには、まだ音になっていない音を、音以外で伝える、という努力が必要なんです。
音を感触や形状に例えて言語化する、というのは結構普遍的にあります。
やわらかいーかたい(感触)
するどいーまるい(形状)
くらいーあかるい(視覚)
あたたかいーつめたい(温度)
きついーゆるい(感触?かな)
こもるーぬける(容積?状態とか?)
その他もろもろ…
じゃあなんで、わざわざ比喩化するか、「何Hz(ヘルツ)が何dB(デシベル)で…」
という説明がもし出来るなら、それがベストなんじゃないか、というと、僕はそう思いません。
例えば僕がマスタリングに立ち会ったとき等、自分以外のエンジニアと作業を共にする際も、
何Hz何dBという言い方はしません。
例えば今より4kHzが3dB欲しい、と思っても、
それを言った所で意図は相手に伝わらないからです。
そんな言い方するんだったら、「ちょっと席変わってくれません?」と言ったほうが早いです、僕の場合。
「4kHzを3dBブースト」を、「もう少し固く」と伝えるか、「もう少し明るく」と伝えるか、
「もう少し抜けがほしい」と伝えるか、その言葉のチョイスで相手に伝わる意図が全然違うわけですね。
やはり、この音の言語化というのは、プロは上手です。
特にディレクターやプロデューサーなど、場を踏んだ人ほど上手に自分の言葉で伝えてきます。
反面、バンドマンは苦手な人が多い。
言葉なんかで説明する前に、鳴らしたほうがはええ、ってなりますからね。
けど繰り返しますが、レコーディングは音の具現化の最中なので、そうはいかないわけですね。
だから、レコーディングって嫌いだ、ってなるバンドマンも多い。
音の言語化に優劣はありません。
こういう言い方が出来るから優れている、なんて事はないのです。国語の授業じゃないんだから。
確かに知性が露出する面もありますがw、そんな事で人に優劣をつけて馬鹿にするヤツは、
音楽で人を感動させる事の出来るヤツじゃないです。
「エッジが効いて尚かつビビットでエキソントリックな」と言おうが
「ガシャーン!とダーン!とギャギャギャーンと!」と言おうが、
伝わるものがありゃいいんですよ。
諦めず、是非、伝えてください。
* category: 未分類
2011 年末の挨拶
2011.12.31
Sat
03:18
先ほど今年の仕事納めを迎える事ができました、リンキィディンクのエンジニアこと小野寺克之です。
今年は、本当に、本当に、本当に、、、いろんな事がありましたね。。。。
今年は、どうしたって、誰にとっても、笑顔で振り返れるような、そういう年ではなかったかもしれませんね。
否応無しに、自分の生活、考え方、生き方、、、そういうものに、何かしら変化の必要を感じた、
そんな年でした。
オンガクの無力さ、また、逆に希望や可能性も、感じた年でした。
何はともあれ、色んな意味で重い記憶を残した年でありました。
けど、なんとかこうして仕事納めを迎える事ができました。
これもひとえに仕事を通して出会った、たくさんのオンガクを愛するみんなのおかげなんだよなー、
って、ほんと心から思ってる、そんな年末でございます。
来年はいったい、どんな年になるのでしょう?不安はいっぱいです。
昔TVで、とあるバンドのヴォーカリストが、
「自分の人生は、お先真っ暗だ。
けどだから楽しい。先が見えてる人生なんて、生きてて面白くない」
と語っていて、感銘を受けた事があります。
自分が不安にかられた時、いつもその言葉を思い出します。
そうやって考えれば、ちょっとはタフにやっていけそうじゃないすか?
僕はそうやって、来年も切り抜けようと思っています。
そんなわけでして(無理矢理締め!)、今年も大変お世話になりました。
来年もがんばりましょー!よいお年を!
今年は、本当に、本当に、本当に、、、いろんな事がありましたね。。。。
今年は、どうしたって、誰にとっても、笑顔で振り返れるような、そういう年ではなかったかもしれませんね。
否応無しに、自分の生活、考え方、生き方、、、そういうものに、何かしら変化の必要を感じた、
そんな年でした。
オンガクの無力さ、また、逆に希望や可能性も、感じた年でした。
何はともあれ、色んな意味で重い記憶を残した年でありました。
けど、なんとかこうして仕事納めを迎える事ができました。
これもひとえに仕事を通して出会った、たくさんのオンガクを愛するみんなのおかげなんだよなー、
って、ほんと心から思ってる、そんな年末でございます。
来年はいったい、どんな年になるのでしょう?不安はいっぱいです。
昔TVで、とあるバンドのヴォーカリストが、
「自分の人生は、お先真っ暗だ。
けどだから楽しい。先が見えてる人生なんて、生きてて面白くない」
と語っていて、感銘を受けた事があります。
自分が不安にかられた時、いつもその言葉を思い出します。
そうやって考えれば、ちょっとはタフにやっていけそうじゃないすか?
僕はそうやって、来年も切り抜けようと思っています。
そんなわけでして(無理矢理締め!)、今年も大変お世話になりました。
来年もがんばりましょー!よいお年を!
* category: 未分類
マニュアル通りの接客応対
2011.12.22
Thu
01:57
マニュアル通りの接客応対が苦手です。
大手のチェーン系カフェとかでコーヒー買うときとか、
僕はコーヒーはブラック無糖派なんで、「ミルク砂糖はいらないです」って必ず言うんだけど、
相手がマニュアル通りの応対をしてると、どこの間でこっちの要望言っていいんだか、すごく難しくないすか?
ついタイミング見間違えて向こうのセリフとかぶっちゃったりするんですよね。
けど、「ミルク砂糖いらない」は、本当はこちらから言わなくても、
向こうから「ミルクとお砂糖はお一つずつでよろしかったですか?」って大概訊いてくるので、
それを待てば質問に回答する、というテイで要望が伝えられるんですよね。
本当に難しいのは、持ち帰りの時の「袋いらないです」を伝える時で、
こっちが言うタイミングを見計らってるうちに事がどんどん進んでしまい、
もう向こうは品物を袋に入れかけてるなんて事がしょっちゅうあるんです。
そうなってくると、いま袋いらない、って言って途中で作業中断させるほうが悪いんじゃないか、
一回開けたビニール袋をまた片したらシワシワになっちゃうんじゃないか、
とか、いろいろとこっちが心配してしまうんです。。
だからといって、注文するときにいきなり
「ブレンド持ち帰り、ブラック、袋なしで」
とかずかずか言うの、できないんです俺は!
なんかそういうの、横柄というか、遠慮ない、って感じじゃないすか。
いくらこっちが客とはいえ。
本当はマニュアル応対でもいいんです。
マニュアル応対でもいいから、もし「噛み合わせ」がうまくいかなくてグダグダになっても、
そこはアドリブ効かせてフォローしてほしいのだ。
(ったくしょうがないわね…)みたいな顔でちょっとトーン落とした声で
「ありがとうございました(フウ…)」とか、そういう反応、やめてほしいのです。
あとテンパッちゃう店員さんも、なんかこっちが悪者みたいに感じるから、できたらやめて。。。
なんだか書いてるうちに東京で暮らしてく自信なくなってきました。大丈夫でしょうか僕は。
もう東京18年住んでるけど。
大手のチェーン系カフェとかでコーヒー買うときとか、
僕はコーヒーはブラック無糖派なんで、「ミルク砂糖はいらないです」って必ず言うんだけど、
相手がマニュアル通りの応対をしてると、どこの間でこっちの要望言っていいんだか、すごく難しくないすか?
ついタイミング見間違えて向こうのセリフとかぶっちゃったりするんですよね。
けど、「ミルク砂糖いらない」は、本当はこちらから言わなくても、
向こうから「ミルクとお砂糖はお一つずつでよろしかったですか?」って大概訊いてくるので、
それを待てば質問に回答する、というテイで要望が伝えられるんですよね。
本当に難しいのは、持ち帰りの時の「袋いらないです」を伝える時で、
こっちが言うタイミングを見計らってるうちに事がどんどん進んでしまい、
もう向こうは品物を袋に入れかけてるなんて事がしょっちゅうあるんです。
そうなってくると、いま袋いらない、って言って途中で作業中断させるほうが悪いんじゃないか、
一回開けたビニール袋をまた片したらシワシワになっちゃうんじゃないか、
とか、いろいろとこっちが心配してしまうんです。。
だからといって、注文するときにいきなり
「ブレンド持ち帰り、ブラック、袋なしで」
とかずかずか言うの、できないんです俺は!
なんかそういうの、横柄というか、遠慮ない、って感じじゃないすか。
いくらこっちが客とはいえ。
本当はマニュアル応対でもいいんです。
マニュアル応対でもいいから、もし「噛み合わせ」がうまくいかなくてグダグダになっても、
そこはアドリブ効かせてフォローしてほしいのだ。
(ったくしょうがないわね…)みたいな顔でちょっとトーン落とした声で
「ありがとうございました(フウ…)」とか、そういう反応、やめてほしいのです。
あとテンパッちゃう店員さんも、なんかこっちが悪者みたいに感じるから、できたらやめて。。。
なんだか書いてるうちに東京で暮らしてく自信なくなってきました。大丈夫でしょうか僕は。
もう東京18年住んでるけど。
* category: 未分類
いきつけのお店
2011.12.02
Fri
00:46
ちょいと思い出ばなしなどを…
子供の頃、いきつけの大好きな模型屋さんがあったんですね。
「ヒルトップ」っていって、その名の通り、丘の上にあるのですが。
ウチから、チャリで行っても4〜50分…、歩いて1時間半以上はかかったかなー。
たまに誕生日なんかで親がプラモ買ってくれる、って事になっても、近くのスーパーなんかじゃ嫌がって、
遠いし親は嫌がるんだけど、ムリ言ってわざわざその離れた模型屋さんまで買いに連れてってもらっていた。
しかし、まあ、子どものくせに、なんでそこまでしてその店に拘ったのか…。
ちなみに、今の自分を翻ってみると、プラモは既に興味の対象外だし、
それ以外のものも、例えば本屋だってCD屋だって、コーヒー豆屋だって靴屋だって、
実に自分が、近くて安い店を選んでることか。
ていうか、最近は店すら行かない、ワンクリックで…、みたいな。
僕が子供のころ、そのプラモ屋さんに拘った理由は、
(多分誰も知らないと思うけど)「プラモ狂四郎」という、当時コミックボンボンで連載していたホビー漫画の影響がありましてw、
当時のあの手のマンガには、必ず主人公が拠点としてる「お店」があって、
そこにはいつも同じ仲間達と、主人公の熱意を唯一理解してくれる大人であるオーナーがいて、
まあ一種の共同体みたいなものが描かれてるわけですよ。
そういうのにすごく憧れてたのw
で現実にはそんな共同体とまではいかないんだけど、なんかその同じ趣味の奴らが集まってる場、
例えばそこに集まる子ども達が組み立てたガンプラやジオラマの展示とか、
裏庭を使ったラジコンのレース場とか、
そういうのがある場に自分が居る、それだけで楽しめた。
今の時代、なんかそういう「場」というものが、作りづらくなってるのかな?特に東京などは。
利便性や居住性、流行りだったり行き届いたサービスだったり、そしてコストパフォーマンス、
そういうお店が重宝される時代なのでしょう、きっと。
それはそれでとてもお店にとって必要なものなんだけれども。。。
自分が、子どもの頃、あの遠い丘の上に抱いていた憧憬、興奮、あれはなんだったんだろうか、と。
もう一度、あの興奮を、自分の仕事場で作り出せないものだろうか?などと、最近思うわけです。
子供の頃、いきつけの大好きな模型屋さんがあったんですね。
「ヒルトップ」っていって、その名の通り、丘の上にあるのですが。
ウチから、チャリで行っても4〜50分…、歩いて1時間半以上はかかったかなー。
たまに誕生日なんかで親がプラモ買ってくれる、って事になっても、近くのスーパーなんかじゃ嫌がって、
遠いし親は嫌がるんだけど、ムリ言ってわざわざその離れた模型屋さんまで買いに連れてってもらっていた。
しかし、まあ、子どものくせに、なんでそこまでしてその店に拘ったのか…。
ちなみに、今の自分を翻ってみると、プラモは既に興味の対象外だし、
それ以外のものも、例えば本屋だってCD屋だって、コーヒー豆屋だって靴屋だって、
実に自分が、近くて安い店を選んでることか。
ていうか、最近は店すら行かない、ワンクリックで…、みたいな。
僕が子供のころ、そのプラモ屋さんに拘った理由は、
(多分誰も知らないと思うけど)「プラモ狂四郎」という、当時コミックボンボンで連載していたホビー漫画の影響がありましてw、
当時のあの手のマンガには、必ず主人公が拠点としてる「お店」があって、
そこにはいつも同じ仲間達と、主人公の熱意を唯一理解してくれる大人であるオーナーがいて、
まあ一種の共同体みたいなものが描かれてるわけですよ。
そういうのにすごく憧れてたのw
で現実にはそんな共同体とまではいかないんだけど、なんかその同じ趣味の奴らが集まってる場、
例えばそこに集まる子ども達が組み立てたガンプラやジオラマの展示とか、
裏庭を使ったラジコンのレース場とか、
そういうのがある場に自分が居る、それだけで楽しめた。
今の時代、なんかそういう「場」というものが、作りづらくなってるのかな?特に東京などは。
利便性や居住性、流行りだったり行き届いたサービスだったり、そしてコストパフォーマンス、
そういうお店が重宝される時代なのでしょう、きっと。
それはそれでとてもお店にとって必要なものなんだけれども。。。
自分が、子どもの頃、あの遠い丘の上に抱いていた憧憬、興奮、あれはなんだったんだろうか、と。
もう一度、あの興奮を、自分の仕事場で作り出せないものだろうか?などと、最近思うわけです。



